Profile of Yoshio AKAO赤尾好夫プロフィール
株式会社旺文社 創業者である赤尾好夫は、1907年(明治40年)3月、山梨県東八代郡英村(現笛吹市石和町)で生れ育ち、東京外国語学校(現 東京外国語大学)イタリア語科を卒業した1931年(昭和6年)10月、歐文社(現 旺文社)を設立しました。日本で初めての通信教育を始め、雑誌「受験旬報」(現「螢雪時代」)や、“赤尾の豆単”と呼ばれ日本一のロングセラーとなった「英語基本単語集」などを出版し、教育出版社としての基礎を築きました。
その後、文化放送・日本教育テレビ(現テレビ朝日)創業への貢献や、「全国学芸コンクール」(現 全国学芸サイエンスコンクール1957年/昭和32年~)・「実用英語技能検定」(1963年/昭和38年~)創設など、出版にとどまらず、日本の教育界、メディア界の発展に大きく寄与しました。
また、狩猟を趣味とし、スポーツ射撃では、1948年(昭和23年)、1952年、1953年の全日本選手権で優勝、1954年の第36回世界射撃選手権大会(ベネズエラ)では、スキート射撃・トラップ射撃でそれぞれ銀メダルを獲得しました。
1985年(昭和60年)4月、勲一等瑞宝章を受章。同年9月に死去後、従三位に叙せられました。
— 山梨県への想い —
当財団は、山梨県の雄大な自然を終生こよなく愛した赤尾好夫の、「故郷で公益事業を行い、社会貢献したい」という遺志を引き継ぎ設立されました。1973年に刊行された「私の履歴書 第47集」(日本経済新聞社刊行)の冒頭も故郷を懐かしむ次のような文章で始まっています。
私の生家は甲府市の東約十キロくらいの所にある。旧石和町の東側を流れている富士川の上流、笛吹川に架した笛吹橋を渡って川に沿って土手の道をくだると、左の方に私の生まれた村落があり、田んぼ、畑をへだてて生家が母屋といくつかの白壁の蔵とひとつかたまりになって見ることができる。
私は六、七歳のころ、母屋の屋根棟に登って雀の子を取ったことがある。屋根棟から西の方を見ると、甲州盆地の底に甲府市が望まれる。その先に、はるかに紫に煙った山が連なっている。日本アルプスの連峰であり、いくつも白く雪でおおわれている。峰の上は紺碧の空が広がり、雲が大菩薩の方へ白く流れていた。その真っ赤な夕焼けの美しさは印象的であった。私の一番小さいころの思い出は、その山梨のすばらしい景色であり、冬が非常に寒くて、夏がやたらに暑かったということである。